大教会昇格と
神殿建築
幾多苦難の節を乗り越えて
幾多苦難の節を乗り越えて
教勢の伸展と
初代会長・
増井幾太郎の出直し
教祖三十年祭の大正5年(1916)3月1日、教会に昇格。部内教会も31ヵ所となった。
やがて、大正10年秋、教祖四十年祭の打ち出しにより、神苑拡張と教勢倍化運動が提唱され、本部神殿のすぐ南側にあった大縣詰所は移転と決まり、本部よりはるか西の方の候補地に一応手付けも入れたが、初代会長が、母・りんのおやしきづとめを思うと、あまりに遠すぎるからと断念。初代会長の母を想う一念で、まもなく本部に近い守目堂に、1233坪(4069㎡)の詰所敷地を購入、大正14年2月、各棟のふしんを終えた。
一方、教勢倍化も着々と進み、大正5年に31ヵ所であった部内教会は、大正10年に2ヵ所、11年に4ヵ所、12年、13年にいずれも4ヵ所、14年に21ヵ所、15年に6ヵ所と、計41ヵ所の新設を見、教祖四十年祭には一躍、部内教会72ヵ所を数えて、その教勢は旭日昇天の勢いがあった。
詰所の落成、部内教会も倍加されて、喜びの教祖四十年祭であったが、13年秋頃より、初代会長の身上にさわりがあり、教祖四十年祭も身上勝れぬ中に過ごして、部内一同の願いも空しく、大正15年10月1日、出直しの朝を迎えた。齢64歳。10歳にして父を失い、12歳の時、母であるりんの身上から信仰に入り、白熱的なりんの布教とおぢばがえり、そして、おやしきづとめ。15歳頃より、すでに母のあとを継いで大縣の道に打ち込み、幾多苦難の節を乗り越えて、双葉の大縣を繁る大樹に育て上げた初代会長の功績は大きかった。
大教会昇格と
二代会長・
増井小玉の足跡
二代会長・増井小玉は、明治10年5月10日、奈良県生駒郡平群村字平等寺の旧家、小東政太郎の長女として生まれた。明治37年、「おさしづ」のまにまに、28歳で初代会長・増井幾太郎と結婚し、一度に5人の子供の母親となった。教会はその頃、2年前に起きた錯雑事件で、家屋敷、畳建具までも抵当に入り、寄って来るのは債権者のみ。苦労覚悟とはいえ、莫大な借金に埋もれながらも、役員信者の心をつなぎつつ、初代会長をたすけて20年あまり、初代会長出直しのあとを受けて、大正15年11月3日、二代会長のお許しを頂いた。
明けて、昭和2年(1927)10月、教規改正により中教会となり、その年の11月28日、二代会長は、母・りんと相談の上、主なる役員16名を電報で招集、初代会長が想いを残した大教会昇格と神殿建築を打ち出した。
まず、大教会昇格の序曲として、再度の教勢倍化に乗り出し、昭和2年1ヵ所、同3年に37ヵ所、5年と6年に各1ヵ所、計40ヵ所が新設、部内教会は一躍112ヵ所となった。
一方、神殿建築の方は、教勢倍化に心奪われているうちに、昭和3年6月、突如、りんの右足が立たず、一歩も歩けぬ容態となり、二代会長は、「建てねば立たぬ」と悟り、精神定めてお願いしたところ、たちまち「じゆうよう」の御守護を頂き、かくてはと一同心を定めて、建築に取りかかった。初代会長が生前、心に描いていた東屋敷は、高低30尺(9.9m)もある4段層のぶどう畠、ふしんの途中に南隣接地も買収して1700坪(5610㎡)となり、神殿、教祖殿、客殿、会長宅、事務所、炊事場など、延べ560坪(1848㎡)の建築は、満3ヵ年の年月を要した。
昭和7年4月20日、二代真柱様、御母堂・たまへ様を迎えて遷座祭、翌21日には、盛大に落成奉告祭を挙行した。
この日、90歳のりんは、かくしゃくとしてこの盛儀に参列、一同感激の祭典であった。この時、喜びの日を記念して、『大縣中教会の沿革』を刊行した。
その後、さらに部内教会の内容充実を待って、昭和15年1月28日、大教会に昇格した。それより前、昭和12年に勃発した日中戦争は、太平洋戦争へ、さらに第2次世界大戦へと展開。召集、徴用、奉仕と明け暮れて、いよいよ敗戦も近い昭和20年6月1日、第2回目の大阪空襲の朝、学童疎開受け入れのこんな田舎にも、B29は焼夷弾を投下、事務所と炊事場を残し、重要建物(神殿、教祖殿、客殿、会長宅、旧神殿居宅)すべてを焼失した。
部内教会も12ヵ所が羅災、会長の戦災死1ヵ所、引き揚げ教会1ヵ所、また後継者の戦死、信者の離散で、なす術もなき終戦直後ながらも、すべてはまず大教会の復興からと立ち上がり、昭和21年11月27日、お目標様の再下附を頂き、ささやかながら竣工した仮神殿にて、二代真柱様の御臨席を仰ぎ、12月13日に鎮座祭、翌14日に奉告祭をつとめることができた。
やがて、部内教会も本来のおたすけ活動に戻り、戦災教会も次第に復興して、いよいよ、大教会神殿の本建築、並びに、附属建物建築の声が高まり、ついては、これを三代会長の初仕事とするべく、二代会長はその職を譲り、それよりは陰から部内教会の治めむきなど心を砕きつつ、昭和35年7月8日、齢84歳で出直した。
因縁ある平等寺小東家の長女として生まれ、逆境の中に育ちながらも、小さい時からおやしきとの縁も深く、教祖に殊の外、可愛がっていただき、増井家の人になられてからも幾重の苦労の道中も初代会長を扶けて内を治め、たすけ一条に真心の限りを尽くして人々をお育て下され、会長の重き理を承け継がれては、常にぢばの理に添い、部内を統べ治めて、道の節々恙なく、殊には初代会長の遺志を継いで大教会昇格への活動を進められると共に、現在の地に神殿、教祖殿をはじめ附属建物一切のふしんを完成され、その間、時には理に厳しく時にはあたたかい親心をもって教え子達を教え導き、今日の大教会の礎を築いた。