眞惠講の結成から
支教会設立へ
屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所
屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所
眞惠講
明治9年、すでに「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所。」とのお言葉を頂き、りんが、おやしきに住み込むようになってからは、残された講社の修理と伝道は、長男・幾太郎が受け継いだ。
明治12年、弱冠17歳の幾太郎は、講社に「眞惠講」という名前をつけ、その講元となり、おぢばに講名簿を提出している。さらに、翌13年9月17日には、秀司様より、転輪王講社世話係の辞令を受け、一路、荒道開拓を急いだ。当然、借財がかさんで、明治14年には、増井家の家財道具一切、3日間の市を開き、借金の整理をしたこともあり、その時、親戚は殊の外やかましく、親族会議には秀司様もお立ち合いくだされている。りんは、その頃すでに、教祖のお守役に専念していた。
明治17年頃より、河内方面にも警察の干渉は一段と激しく、幾太郎は2週間ほど留置されたが、かえって布教に筋金が入り、25歳で「神水のさづけ」を戴いた。教線は、大縣村を中心に21ヵ村に伸びて、要所、要所に熱心な講元を置いて、布教活動は活況を呈した。
やがて、明治21年となり、天理教は、神道本局に属して地方庁より公認。各地の講元は俄かに、分・支教会設立の計画を進めた。河内方面は、教興寺に松村氏、大縣に増井、その中間に板倉、山本両氏が教線を張り、両者共に、眞惠講の所属を望まれたが、松村氏の請に応じて、髙安に所属。丹精した法善寺村の信徒はすべて板倉、山本両氏に所属させて、明治24年、眞惠講は、「髙安光道第三号」と名を改めた。しかし、その頃すでに、支教会設置の機運は熟しており、明治25年(1892)1月22日、本部のお許しを頂き、同年9月19日、地方庁の認可も得た。
大節を乗り越えて
さて、支教会となると、昔ながらの増井家の居宅では手狭となり、許しを得て、居宅の北側に神殿のふしんにかかった。落成奉告祭は、明治27年4月15日に行われた。大縣にとって最初のふしんである。
明治32年10月17日、髙安分教会長の母堂・松村さく様の身上に付き、11月15日におさしづを仰がれ、その結果、大縣は、髙安より分離、本部直属となり、分教会に昇格した。それは、明治32年12月29日の「おさしづ」により、速やかに事は運んだ。
さて、本部直属となると、信者詰所が必要となったが、以前より、りんと増井丑松夫婦はおやしきづとめのため、本部神殿南側に居住していたので、その隣接地を買収、34年に諸設備の整った詰所の新築落成を見た。
しかし、こうした喜ぶべきことの反面、かねて身上の初代会長夫人・きとは、翌35年3月、5人の子供を残して出直し、さらに、その年の暮れには、一背信者の行動が因をなして、錯雑事件が起きた。そして、悪評は誤解を招いて、信者はもちろん、役員までもいずみ、事件以来3、4年寄って来るのは債権者ばかり、教会は火の消えた有様になった。初代会長はひたすら神様にもたれ、身を挺して解決にあたっていたが、明治37年10月19日、「おさしづ」を仰ぎ、後添えとして小東小玉を迎え、心の支えを得て、この大節を乗り切ることができた。明治41年、天理教一派独立の頃には、部内教会も活気を取り戻し、何でも根に培わねばと勇み立つようになった。