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【増井りん・老先生の生い立ちと入信】
天保14年(1843)2月16日、増井りんは、父・善治、母・うのの一人娘として、河内大縣の里に生まれた。りん19歳の時、林惣三郎(当時26歳)を養子に迎えて結婚し、りん21歳の時に長男、続いて長女、次男と、子宝にも恵まれて、満ち足りた10年が過ぎ去った。
明治5年、りん30歳の時、父・善治が、そして、夫・惣三郎までも僅かな病で相ついで出直し、3人の幼児を抱えて、りんは全く途方にくれた。翌6年、さらに自分も「リウインシャク」を病む身となり、医者、薬、祈祷、どんな信心もしたが、とうとう3年の寿命と宣告され、悲嘆にくれて、明治7年を迎えた。
その年、10月25日夜から翌日の26日にかけて、りんの両眼は一夜の間に腫れ塞がり、痛みも激しく、手をひかれて有名な眼医者を回ったが、いずれも全治不能の「ソコヒ」と診断。いわゆる、盲目の宣告であった―。
逸話編には次のように著されている。
「こうして、一家の者が悲歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何でもよく救けて下さる。三日三夜の祈禱で救かる。」 という話を聞いてもどった。それで早速、親子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあらわれない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を召された教祖を拝み、取次ぎの方々から教の理を承わり、その上、角目角目を書いてもらって、もどって来た。
これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすがってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」 と、家族一同、堅い心定めをした。
りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃うて三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座しつづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙から差して来る光を見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」 と、言った。
その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸をくると、外は、以前と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全快の御守護を頂いたのである。
りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通してお礼を申し上げると、お言葉があった。
「さあへ、一夜の間に目が潰れたのやな。さあへ、いんねん、いんねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれまするよう。」
と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、教祖からお言葉があった。
「さあへ、いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうしてなりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるから、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めてでも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、する事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。さあく いんねん、いんねん。佐右衛門さん、よくよく聞かしてやってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあく 勇め、勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの心次第やで。」
と、仰せ下された。
その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、
「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷超えて来たのやなあ。さあへ、その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。さあへ、着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤めるのやで。さあへ、楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれた。時に、増井りん、三十二才であった。」
大教会昇格と神殿建築
【河内布教とおやしきづとめ】
「3年の寿命はない」と言われた身体。そして、盲目から元に戻していただいたりんは、もう家にジッとしていられなかった。雨の日も風の日も夜となく昼となく、おぢばに通った。河内から山超えて7里半(30km)、大雪の日、まろびつころびつ「おやしき」に帰ってきたりんを、教祖は、あたたかい両手で、しっかりと握りしめてくださった。
そして、家も子もすっかり人任せにして、りんは女一人、白熱的な布教を始めた。いつ夜が明けたのやら、いつ陽が暮れたのやら、不思議なたすけは相ついで、3年ほどの間に道は、中河内、南河内の各村に伸び広がり、求めずして信者の結成ができた。もちろん、親戚の反対、警察の弾圧、僧侶の攻撃はあったが、さらさら気にも止めず、また、りんにたすけられた熱心な9人の周旋方は、手分けして、各地に天理王命の神名を流した。
その間、りんの「おぢばがえり」は、ますます繁くなり、明治10年頃、教祖より「日を定めてつとめるよう」とのお言葉で、おやしきづとめが始まった。さらに、明治12年6月頃、「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあへ、楽しめ、楽しめ。」とのお言葉により、その日より、教祖のお守役として、お側に仕えるようになった。
りんは、入信以来、教祖より「針のしん」のおゆるし、「息のさづけ」、「あしきはらいのさづけ」、「肥のゆるし」など、数々の重い理を戴き、明治33年12月15日付で本部員に登用され、さらに、教会本部の役職として制度化された明治41年12月14日、あらためて本部員に登用され、晩年までただ一人の婦人本部員として別席取次ぎをつとめた。
明治20年陰暦正月26日、教祖が現身をかくされて後もおやしきづとめに励み、その後、明治26年5月18日の「おさしづ」により、本席様のお守役を15年間、さらに初代、二代の真柱様にお仕えして、97歳の高齢まで、「元一日」の心定めを貫き通した65年間のみちすがらであった。りんは、昭和14年(1939)12月17日、おぢばで出直した。
【眞惠講の結成から支教会設立へ】
明治9年、すでに「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所。」とのお言葉を頂き、りんが、おやしきに住み込むようになってからは、残された講社の修理と伝道は、長男・幾太郎が受け継いだ。
明治12年、弱冠17歳の幾太郎は、講社に「眞惠講」という名前をつけ、その講元となり、おぢばに講名簿を提出している。さらに、翌13年9月17日には、秀司様より、転輪王講社世話係の辞令を受け、一路、荒道開拓を急いだ。当然、借財がかさんで、明治14年には、増井家の家財道具一切、3日間の市を開き、借金の整理をしたこともあり、その時、親戚は殊の外やかましく、親族会議には秀司様もお立ち合いくだされている。りんは、その頃すでに、教祖のお守役に専念していた。
明治17年頃より、河内方面にも警察の干渉は一段と激しく、幾太郎は2週間ほど留置されたが、かえって布教に筋金が入り、25歳で「神水のさづけ」を戴いた。教線は、大縣村を中心に21ヵ村に伸びて、要所、要所に熱心な講元を置いて、布教活動は活況を呈した。
やがて、明治21年となり、天理教は、神道本局に属して地方庁より公認。各地の講元は俄かに、分・支教会設立の計画を進めた。河内方面は、教興寺に松村氏、大縣に増井、その中間に板倉、山本両氏が教線を張り、両者共に、眞惠講の所属を望まれたが、松村氏の請に応じて、髙安に所属。丹精した法善寺村の信徒はすべて板倉、山本両氏に所属させて、明治24年、眞惠講は、「髙安光道第三号」と名を改めた。しかし、その頃すでに、支教会設置の機運は熟しており、明治25年(1892)1月22日、本部のお許しを頂き、同年9月19日、地方庁の認可も得た。
さて、支教会となると、昔ながらの増井家の居宅では手狭となり、許しを得て、居宅の北側に神殿のふしんにかかった。落成奉告祭は、明治27年4月15日に行われた。大縣にとって最初のふしんである。
明治32年10月17日、髙安分教会長の母堂・松村さく様の身上に付き、11月15日におさしづを仰がれ、その結果、大縣は、髙安より分離、本部直属となり、分教会に昇格した。それは、明治32年12月29日の「おさしづ」により、速やかに事は運んだ。
さて、本部直属となると、信者詰所が必要となったが、以前より、りんと増井丑松夫婦はおやしきづとめのため、本部神殿南側に居住していたので、その隣接地を買収、34年に諸設備の整った詰所の新築落成を見た。
しかし、こうした喜ぶべきことの反面、かねて身上の初代会長夫人・きとは、翌35年3月、5人の子供を残して出直し、さらに、その年の暮れには、一背信者の行動が因をなして、錯雑事件が起きた。そして、悪評は誤解を招いて、信者はもちろん、役員までもいずみ、事件以来3、4年寄って来るのは債権者ばかり、教会は火の消えた有様になった。初代会長はひたすら神様にもたれ、身を挺して解決にあたっていたが、明治37年10月19日、「おさしづ」を仰ぎ、後添えとして小東小玉を迎え、心の支えを得て、この大節を乗り切ることができた。明治41年、天理教一派独立の頃には、部内教会も活気を取り戻し、何でも根に培わねばと勇み立つようになった。
たすけて頂いたご恩を胸に
【教勢の伸展と初代会長・増井幾太郎の出直し】
教祖三十年祭の大正5年(1916)3月1日、教会に昇格。部内教会も31ヵ所となった。
やがて、大正10年秋、教祖四十年祭の打ち出しにより、神苑拡張と教勢倍化運動が提唱され、本部神殿のすぐ南側にあった大縣詰所は移転と決まり、本部よりはるか西の方の候補地に一応手付けも入れたが、初代会長が、母・りんのおやしきづとめを思うと、あまりに遠すぎるからと断念。初代会長の母を想う一念で、まもなく本部に近い守目堂に、1233坪(4069㎡)の詰所敷地を購入、大正14年2月、各棟のふしんを終えた。
一方、教勢倍化も着々と進み、大正5年に31ヵ所であった部内教会は、大正10年に2ヵ所、11年に4ヵ所、12年、13年にいずれも4ヵ所、14年に21ヵ所、15年に6ヵ所と、計41ヵ所の新設を見、教祖四十年祭には一躍、部内教会72ヵ所を数えて、その教勢は旭日昇天の勢いがあった。
詰所の落成、部内教会も倍加されて、喜びの教祖四十年祭であったが、13年秋頃より、初代会長の身上にさわりがあり、教祖四十年祭も身上勝れぬ中に過ごして、部内一同の願いも空しく、大正15年10月1日、出直しの朝を迎えた。齢64歳。10歳にして父を失い、12歳の時、母であるりんの身上から信仰に入り、白熱的なりんの布教とおぢばがえり、そして、おやしきづとめ。15歳頃より、すでに母のあとを継いで大縣の道に打ち込み、幾多苦難の節を乗り越えて、双葉の大縣を繁る大樹に育て上げた初代会長の功績は大きかった。
【大教会昇格と二代会長・増井小玉の足跡】
二代会長・増井小玉は、明治10年5月10日、奈良県生駒郡平群村字平等寺の旧家、小東政太郎の長女として生まれた。明治37年、「おさしづ」のまにまに、28歳で初代会長・増井幾太郎と結婚し、一度に5人の子供の母親となった。教会はその頃、2年前に起きた錯雑事件で、家屋敷、畳建具までも抵当に入り、寄って来るのは債権者のみ。苦労覚悟とはいえ、莫大な借金に埋もれながらも、役員信者の心をつなぎつつ、初代会長をたすけて20年あまり、初代会長出直しのあとを受けて、大正15年11月3日、二代会長のお許しを頂いた。
明けて、昭和2年(1927)10月、教規改正により中教会となり、その年の11月28日、二代会長は、母・りんと相談の上、主なる役員16名を電報で招集、初代会長が想いを残した大教会昇格と神殿建築を打ち出した。
まず、大教会昇格の序曲として、再度の教勢倍化に乗り出し、昭和2年1ヵ所、同3年に37ヵ所、5年と6年に各1ヵ所、計40ヵ所が新設、部内教会は一躍112ヵ所となった。
一方、神殿建築の方は、教勢倍化に心奪われているうちに、昭和3年6月、突如、りんの右足が立たず、一歩も歩けぬ容態となり、二代会長は、「建てねば立たぬ」と悟り、精神定めてお願いしたところ、たちまち「じゆうよう」の御守護を頂き、かくてはと一同心を定めて、建築に取りかかった。初代会長が生前、心に描いていた東屋敷は、高低30尺(9.9m)もある4段層のぶどう畠、ふしんの途中に南隣接地も買収して1700坪(5610㎡)となり、神殿、教祖殿、客殿、会長宅、事務所、炊事場など、延べ560坪(1848㎡)の建築は、満3ヵ年の年月を要した。
昭和7年4月20日、二代真柱様、御母堂・たまへ様を迎えて遷座祭、翌21日には、盛大に落成奉告祭を挙行した。
この日、90歳のりんは、かくしゃくとしてこの盛儀に参列、一同感激の祭典であった。この時、喜びの日を記念して、『大縣中教会の沿革』を刊行した。
その後、さらに部内教会の内容充実を待って、昭和15年1月28日、大教会に昇格した。それより前、昭和12年に勃発した日中戦争は、太平洋戦争へ、さらに第2次世界大戦へと展開。召集、徴用、奉仕と明け暮れて、いよいよ敗戦も近い昭和20年6月1日、第2回目の大阪空襲の朝、学童疎開受け入れのこんな田舎にも、B29は焼夷弾を投下、事務所と炊事場を残し、重要建物(神殿、教祖殿、客殿、会長宅、旧神殿居宅)すべてを焼失した。
部内教会も12ヵ所が羅災、会長の戦災死1ヵ所、引き揚げ教会1ヵ所、また後継者の戦死、信者の離散で、なす術もなき終戦直後ながらも、すべてはまず大教会の復興からと立ち上がり、昭和21年11月27日、お目標様の再下附を頂き、ささやかながら竣工した仮神殿にて、二代真柱様の御臨席を仰ぎ、12月13日に鎮座祭、翌14日に奉告祭をつとめることができた。
やがて、部内教会も本来のおたすけ活動に戻り、戦災教会も次第に復興して、いよいよ、大教会神殿の本建築、並びに、附属建物建築の声が高まり、ついては、これを三代会長の初仕事とするべく、二代会長はその職を譲り、それよりは陰から部内教会の治めむきなど心を砕きつつ、昭和35年7月8日、齢84歳で出直した。
因縁ある平等寺小東家の長女として生まれ、逆境の中に育ちながらも、小さい時からおやしきとの縁も深く、教祖に殊の外、可愛がっていただき、増井家の人になられてからも幾重の苦労の道中も初代会長を扶けて内を治め、たすけ一条に真心の限りを尽くして人々をお育て下され、会長の重き理を承け継がれては、常にぢばの理に添い、部内を統べ治めて、道の節々恙なく、殊には初代会長の遺志を継いで大教会昇格への活動を進められると共に、現在の地に神殿、教祖殿をはじめ附属建物一切のふしんを完成され、その間、時には理に厳しく時にはあたたかい親心をもって教え子達を教え導き、今日の大教会の礎を築いた。